イカダが浜辺へと打ち上がり、彼はイカダから降りて辺りを見渡した。
襲ってきた賊たちの足跡が陸側へと続いている。
賊たちの溜まり場だった事もあり、浜辺には消えそうな焚き火と古屋がある。
他に目に付くものは特にない。
朝方という事もあり、人の気配もない。
波の音が聞こえるだけの静かな浜辺だ。
ぐーっ。
その浜辺で腹の音を鳴らすこの男を除いては。
「お腹が空いたな」
浜辺の焚き火へと近づいてみると、薪は近くに置かれておらず、陸風もあって、火が今にも消えそうに揺れていた。
それを見た彼は古屋へと向かい、中へと入った。
釜戸があり、小上がりの座敷を見れば、囲炉裏もある。
座敷には漁の網や蛸壺、銛などの漁で使うであろう物も置いてある。
掃除はされていないのか、どうも生臭い。
一度外へ出て、息を整えてから息を止めてまた入る。
その間に釜戸の横にあった薪を持てるだけ拝借し、古屋を出た。
息を整えながら、焚き火へと近づく。
彼の鼻は人よりも利くようで、きっと古屋の中は耐え難い臭さだったのだろう。
「あそこには、もう入らない……」
そう心に決め、もう消えてしまった焚き火の燃え跡に薪を置いた。
古屋の中にあったとはいえ、海が近いせいで湿気ているであろう薪は燃えにくい。
しかも、燃やすと爆ぜやすい。
できれば、乾燥した枯れ木などを使うべきである。
だが、彼は右手からお得意の炎を事もあろうにその薪に浴びせた。
やはりと言えよう。薪が一気に爆ぜた。
高温の炎を一気に浴びせたのだから無理もない。
炎のついた薪が飛び散り、彼へと飛ぶ薪もある。
彼に当たるであろう瞬間、爆ぜ飛んだ薪だけ宙に舞い上がり、焚き火の中へと落っこちていった。
右手だけでなく、控えめに左手も縞合羽から出して風を操っていたようだ。
まるで、念力で物を浮かせたのような荒技だが、彼にとっては当たり前のようで淡々と薪を燃やす。
ある程度、薪が落ち着きだした頃合いで右手の炎を消して、縞合羽へと引っ込めて、その代わりに控えめに出していた左手を焚き火にかざした。
火が陸風で揺れなくなった。
煙も彼の背丈までは真っ直ぐに登るが、背丈より上は海へと流れている。
風を操って、焚き火の火が消えないようにしたのだ。
なんとも便利なものである。
彼は右手からは炎を、左手からは風を。
その二つを操る事ができるようだ。
左手をかざしたまま、見守ること数分。
火が薪へしっかり燃え移り、暖かさを放ち出した。
「やっと、休める」
左手を縞合羽にしまうと、火は陸風を受けて、揺らぎ始め、出てくる煙も海へと流れ始めた。
彼は、焚き火の火の粉や煙を避けるために風上に胡座をかいた。
三度笠を外して置き、縞合羽を適当に丸めて、重石代わりにした。
男の濃い灰色の着物に袖はなく、黒い袴を着ている。
右腰に瓢箪、左腰に荷袋を結び付けている。
瓢箪を外し、浜辺に垂直に立てると、荷袋から竹皮で編まれた大きな包みを取り出した。
包みを開けると、彼の握ろ拳ほどの大きなおむすびが入っていた。
海苔が巻いてあるだけのおむすび。
彼はそれに目を輝かせ、尻尾を振りながら大口でかぶりついた。
口いっぱいに頬張って、嬉しそうに食べる。
具は入っていない素朴な塩おむすびだが、耳と尻尾をバタバタと動かす彼の姿を見れば、美味しい事が伝わってくる。
飲み込んだ後に瓢箪の栓を外し、喉を鳴らしながら水を飲んだ。
「ぷはぁっ」と声を漏らしたのも気にすることなく、二口、三口と食べ進め、水を飲む。
大きなおむすびはもう手にはなく、三口で完食してしまった。
残された竹皮の包みを眺めて、神妙な面持ちになった。
「もうなくなった……」
早すぎる別れに驚いていたのも束の間。
また荷袋から二個目の竹皮の包みを出した。
それもさっきと同じくらいに大きい。
そう、彼は二個目を食べるかを悩みだしていた。
「ここで食べたいけど……我慢しよう。ここからは歩かないといけないしな。弓月も食べるか」
右肩へおむすびを差し出すが、彼が弓月と呼ぶ黒い人魂は出てこなかった。
どうやら、要らないようだ。
そもそも、人魂に食事が必要なのか疑わしい。
彼は黙って、包みを荷袋に戻し、折り畳まれた紙を取り出した。
紙を開くと、ミミズが這ったような線で地図が描かれてある。
左下の陸地から海を北北東へと矢印が伸びた先の陸地に丸が書かれている。
そこはきっと、彼が今いる浜辺を示しているのだろう。
そこから紙の四分の三近く占めている陸地にはさらに東北東へと伸びる矢印。
その先に丸が記されていた。
「ここから東北東か……」
右手で日除けを作り、山の上から溢れて見える陽の光を見た。
その光の少し左側。
およそ東北東であろう方角へと視線を向けると、標高の高い山が見えた。
まるで蛇が山頂へ登っていくような崖道がある山である。
山頂に小屋があるようで、そこから白い湯気のようなものが上がっている。
しばらく、眺めると視線を手元に戻し、軽くため息を吐いた。
「村までの距離が分からないから、野宿を覚悟した方がいいか……やっぱり、おむすびはお預けだ」
そう呟きながら地図を畳んで、左腰の袋へと仕舞う。
袋の口を縛った後に、名残惜しそうに袋を撫でた。
野宿をする事に対して、ため息を吐いたのではなく、おむすびを食べられない事に対してだったようである。
そして、やっと食べない決意を固めたようだ。
彼は思いの外、食いしん坊のようで。
美味しさを思い出したのか、耳と尻尾がまたパタパタと動かしている。
目的地の確認をしているうちに、焚き火は弱くなってきていた。
海から陸へと吹く風である海風を感じられるようになってきている。
「弓月、こうして本州に着いたけど、これから俺はなにをしたらいいんだ?」
そう問いかけたが、人魂は出て来なかった。
「まぁ、こうして旅に出てきたんだ。これから教えられなくても分かるだろうし、楽しみにしとくかな」
彼は旅の目的を教えられてはいないようだ。
その為の地図だったのかは深く考えずに彼は立ち上がった。
適当に丸めていた縞合羽を伸ばして羽織り、首元にくる紐を結んだ。
三度笠に付いた砂を落として、頭に被る。
頭からずり落ちないように顎当てを当てがい、紐を結ぶ。
最後に置いていた瓢箪を取り、水を飲んで一息ついた。
眺める海は波が立ち始めている。
「みんな、行ってくる」
海の向こうにある故郷に向かって言った。
瓢箪の紐を右腰の帯に括り付けた。
右腕を出して、浜辺に来て何度目かの炎を出す。
焚き火の後処理として、燃え残りを容赦なく焼き切る。
熱気と一緒に舞い上がる灰も空気中へと霧散して、如何に火力の強い炎を出せるかどうかが伺える。
炎を消すと、砂が真っ黒になっていた。
右腕の火を振り落として、縞合羽へしまった。
「少しやりすぎた……行くか」
地図に書かれてある目的地へ。
東北東の山を目印に歩き始めた。
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