第一話 つゆしらず
夜闇が深まった山の中、鎧武者は刀を帯刀しているにも関わらず「土」から逃げていた。
がしゃりがしゃりと鎧が鳴るのも構わずに、左手は腰に差した刀に添えたままにひた走る。
「まさか、これ程とはっ!」
自分たちの浅はかさで敵を見誤ってしまった。
後悔するように呟いた声に返事はもはやない。
あるとするなら、迫ってくる「土」である。
逃げる鎧武者を飲み込まんと追いかけまわす。
鎧武者に迫っては、大波のように覆い被さろうとしてくる「土」をなんとか鎧武者は避けてきた。
妖術の類で操られている事は鎧武者にもわかったが、刀で切ろうとも「土」に対してでは刃が立たない。
迫ってきた「土」を相手取ろうとしても、他の「土」が取り囲みにくる。
飲み込まれる前に逃げることにしたのだ。
(体力には自信があったのでござるが……)
鎧を着込み、刀も差したままに逃げ続けてきたが、息も絶え絶えで走る速度も落ちてきた。
もはやと鎧武者が思っていると、追ってくる「土」の音が無くなっていた。
走りながらに振り返ると案の定、追ってくる「土」はない。
「なんとか……逃げ切ったで、ござるな」
鎧武者は足を止め、立ち止まった。
いや、立ち止まってしまったのだ。
そうさせたのは疲れがあったからだろう。
ただ、それだけではなかった。
「な、なんと……」
鎧武者の行手には自身の背丈よりも二倍はあろう化け物の姿だった。
その恐ろしさから左手は刀から離れ、逃げ疲れた足はもつれて尻餅をついた。
「これまでか」
鎧武者が呟いた頃にはもう、化け物が口をかっぴらいた音が聞こえていたのだった。
・――・――・
「おっかねェ〜な。オレが言えた義理じゃねェが」
その様子を上空から見ていた黒い霧が鎧武者を弔うのように感想を述べていた。
「ここはやられてそうだナァ。まァ、良い時間稼ぎにはなってくれそうダ」
さらにそう宣うと、黒い霧は北北東へと飛び去っていった。
・――・――・
そんな出来事が起きているのを梅雨知らず。
桜は散り、散った桜を惜しむように首を垂れる鈴蘭が咲いている頃合。
蝦夷へと向かう弓月たちは関ヶ森という関所を天明からもらった通行証を見せて通り、近場の宿をとっていた。
京を出て、四度目の宿である。
「今日はそんなに歩けなかったな」
「蒼さんみたいに方向音痴でなくても、土地勘が無ければこんなものですよ」
蒼と椿が話しているのを聞き流して、弓月は思考に耽っていた。
あの黒い霧の正体。
力地の時に蒼の記憶の中で知った時はまさか、そんなはずはないと思っていた。
季喬との会話、津流別雷神社で話した時にその疑いは間違いないものになってしまった。
だが、弓月自身、信じたくはない事実である。
遠い過去に弔ったはずの相手がまだ生きているなんて事は。
『三百年前よりも弱くなったナ、弓月』
『前なら全部焼き切ってたのにナァ?』
黒い霧は三百年前の弓月を知っている口ぶりだった。
あの話し方に違和感はあるが、声色に聞き覚えがあるのだ。
次に相見えた時は確実に屠らなければならない。
そう思うと弓月自身、意識は遠く、心も深く沈み込みそうになる。
「弓月?」
そんな時に蒼が声をかけてきた。
「大丈夫か?」
気が利くのか、それとも、何かを感じ取ったのか。
気がつけば、蒼の身体から抜け出ていた。
蒼が弓月の魂を引っ張り出したのだろう。
蒼の掌の上で火の玉姿で横に揺れる。
(なんでもない)
そう返したつもりだが、蒼はまだ心配そうに目を向けてくる。
今、話すのは憚られる。
弓月自身が受け止めきれないでいる事実を蒼が知れば、椿が知れば、どう思うだろうか。
その疑問をも受け止められそうにないほどに心が揺れていた。
「弓月さんも疲れてるんですよ! 京では大立ち回りでしたし、季喬様のおかげで……えっと、代わりの体……みたいのも不慣れだったのに敵も倒したんですよね?」
「ああ、あれは凄かった! 俺も抜魂糸を使ったが、弓月のあの術は比べようがないな」
「なら、やっぱり疲れてるんですよ。弓月さん、ゆっくり休んでください。きっとしばらくは問題事も少ないでしょうから」
椿の言葉に甘んじて、縦に揺れた。
(いかんな。二人に気をかけさせてしまうとは。だが、今日の所は甘んじるとしよう。椿の言うとおり、疲れが出たのやもしれん)
「何かあったら、言ってくれ。白い勾玉にも妖力を貯めておく。いつでも使ってくれ」
蒼の言葉にも縦に揺れた後、蒼の体へと入っていく。
声をかけられたのは驚いたが、それよりも話さずとも心が少し楽になった気がした。
弓月のために旅に出ると決意し、弓月を救いたいと言ってくれた蒼。
自身の弱さをわかっていながら、弓月と蒼の旅を共にしてくれる椿。
(この二人ならわかってくれるかもしれない。あとは私次第か)
と気を持ち直しながらに弓月は微睡み、眠りについた。
それを感じ取った蒼は驚いていた。
「弓月、本当に疲れていたんだな。すぐに寝た」
「そりゃ、そうですよ。京では私も疲れましたし、弓月さんは色々と気を配ってくれてたでしょうから」
「そうか、もっと俺もしっかりしないとな」
「蒼さんはまだ戦えるから良いですよ、私なんて……」
「いや、椿も天明の家で家事やらやってくれてたんだから大丈夫だ!」
「でも、人質になっちゃったし」
「それは俺がまだしっかりしてないせいでもあるから、あまり自分を責めるな……やっぱり、もっと気を配れるようにならないとな」
肩を落とす椿に、頭を掻く蒼。
「あの。もしやとは思いますが、京近くの宿を救ってくださった方々ではありませんかな?」
いつもであれば、弓月の叱責が飛んでくる。
その代わりに宿の亭主から声をかけられた。
二人は亭主に顔を向けた後、顔を見合わせた。
「そうだが?」
蒼が亭主に向き直り、曖昧な返答をしたのに対して、亭主は胸に手をやり安心したように息を吐いた。
椿はこの仕草を見た時、嫌な予感がしたのだった。
・――・――・
さぁさぁ、始まりましたは参章目。
何やら雲行き怪しくはございますが!
歩みますは、蝦夷へと続く道中。
語りますのは、山模様と心模様。
黒狼記、第参章の始まり始まり〜!

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